悠一郎からはその日の内にメールがあった。『大丈夫だった?』と。
恵理はそれに対して『うん、大丈夫だったよ』と返信したが、たったそれだけの文章なのに書いては消し、書いては消しを繰り返して、返信にするのに何時間も掛かってしまった。
大丈夫って、何が大丈夫なんだろう。
奈々に昨日の事がバレていないという意味ならば、大丈夫なのかもしれない。
でも奈々に嘘をついて騙して、それに気付いていない奈々を見てホッとしているような自分が嫌だった。
本当は、大丈夫だけど大丈夫じゃないって言いたかった。
その後悠一郎からは雨宿りさせてくれてありがとうという事と、酒に酔っていたとはいえ悪かった、ごめん、というメールが送られてきた。
それに対しては、恵理は結局なにも返信する事はできなかった。
ショックだったから。
悠一郎にとってあの夜の事は、お酒に酔っての出来事だったのだと。
〝俺、恵理の事好きだし〟
悠一郎のあの言葉はいったいなんだったんだろう。
ソファの上に体育座りになって小さくなる恵理。口を膝に当てながら、テーブルの一点だけをじーっと見つめる。
昨日は隣に悠一郎が居てくれた。
あの声、あの匂い、あの体温、そして肌と肌で感じた、あの感触。
心まで溶け合って、一つになった気がしてた。
でも、今は悠一郎の心が分からない。
呆然としていた恵理の目から、涙がポロポロと零れる。
悠一郎は軽い気持ちでいたのかもしれない。
でも自分はどうだろう。
親友から恋人を奪おうとしたの?違う。
一夜限りの関係で良いと思ったの?違う。
でも親友を裏切った事に違いはない。
悠一郎は恋人を裏切り、恵理は親友を裏切った。2人は共犯者だ。
だから裏切り者同士、いつ相手に裏切られても仕方ないのかもしれない。
でも嫌だ。あの言葉が嘘だったなんて思いたくない。
そうやって悠一郎の事ばかりを考えていると、いつの間にかまた奈々の事を忘れてしまっていて、自分の感情を優先してしまう。
世界で私が一番可哀想だって、被害者ぶりたくなる。
ただ好きだった。ただ好きで好きで堪らなくて、寂しかった。
今でも、もし悠一郎が突然現れて
「一緒にどこか遠くへ逃げてしまおう!」
と言われたら、きっと奈々を置き去りにして付いて行ってしまうに違いないし、それを心のどこかで期待している自分が今もいる。
私って最低。
台風の日から数ヶ月、恵理はあの日以来、殆ど悠一郎と接触する事はなかった。
大学で悠一郎の姿を見かけても、恵理はわざと悠一郎を避けるようにしてしていた。
本当は悠一郎の事が気になって気になって仕方なかったけれど、こちらから話しかける勇気はなかったし、悠一郎から話しかけてくる事もなかった。
奈々と悠一郎の付き合いはしばらく続いていた。でもあの日以来悠一郎はアパートに来ていない。
恵理はその原因が自分にある事を確信していたが、奈々はそれには全く気付いていないようで、ただ
「最近全然会ってくれない」
と不満がってた。
そして、この3人の複雑な関係にとうとう終わりが訪れる。
それはある日の夜の事だった。
恵理がアパートの部屋で一人で過ごしていたところ、突然部屋の呼び出し音が鳴った。
時間は0時を過ぎた深夜だ。
誰だろうと恵理がドアに近づくと、外から奈々の弱々しい声が。
「恵理ぃ……ぅぅ……ぅ……」
それを聞いて何事かと思った恵理がドアを開けると、そこには顔をクシャクシャにして泣いている奈々が立っていた。
「ど、どうしたの!?」
目を丸くして驚く恵理。
「ぅぅ……ぅぅ……」
「奈々、どうしたの一体……とにかく入って、ね?話聞くから。」
恵理は喋れないほど泣きじゃくっていた奈々を気遣うようにして部屋に入れた。
そして恵理はこの前自分がしてもらったように、温かい飲み物を入れて奈々に出した。
「ねぇ奈々、何があったの?」
心配そうにそう声を掛ける恵理。
そこで少しずつ落ち着きを取り戻していた奈々がようやく、手で涙を拭いながら口を開いた。
「悠一郎が……悠一郎が……浮気してた。」
「えっ」
一瞬、恵理の息が止まる。
全身の毛穴が開いてドバァっと冷や汗が溢れてくるような感覚。
当然恵理の頭の中にはあの夜の事が思い出される。
悠一郎があの事を奈々に話してしまったのかと。
しかしよく考えてみれば、それならば奈々が今ここに来るはずがない。
手が震えるほど激しく動揺しながらも、続けて話す奈々の話に恵理は耳を傾けた。
「……最近全然会ってくれないし、連絡してもなかなか返信してくれないし変だなと思ってたの……それで今日どうしても会いたくなって悠一郎のバイト先の近くで待ってたの……そしたら悠一郎が女の子と仲良さそうに出てきて……私声掛けられなくて……悠一郎……その子と手繋いで歩いてたの……ぅぅ……。」
「……そんな……」
恵理は言葉を失った。悠一郎がまた別の子と浮気してたなんて。
本当は親友として奈々を慰めないといけない場面だけれど、それ以上に自分自身が混乱してしまう。
「……奈々……私……」
なんと声を掛ければいいのか。
そんな風に恵理が悩んでいると、奈々がポツリと呟いた。
「……別れたの……」
「えっ?」
「私我慢できなくて、さっき電話して問い詰めたら……別れようって……言われたの……」
そう力なく言うと、奈々は恵理の胸に抱き付いて再び大粒の涙を流し始めた。
それこそ子供のように声を上げての号泣だ。
奈々の涙で恵理が来ていた服が濡れていく。
「奈々……」
恵理はそっと奈々を抱きしめながら、自分自身も目に涙を溜めていた。
奈々が悠一郎に聞いた話によると、その女の子は悠一郎のアルバイト先の後輩で、最近入ってきた新人なのだそう。
最初、怒り口調で問い詰めた奈々に対して、悠一郎は申し訳なさそうに謝ってきた。
しかしその後悠一郎はあっさり別れの言葉を言ってきたという。
奈々としては本当はやり直したいという気持ちもあったのだが、最終的には浮気をしていた側の悠一郎にフラれてしまった。
だから奈々は悔しいわ悲しいわで涙が止まらないと。
普段どちらかと言えば気が強いタイプの奈々が、失恋に加えてこれだけプライドをズタズタにされれば、号泣してしまうのも仕方ない。
一方恵理にとってもそれはショックな事で、結局悠一郎という男はそういう人間だったのだという事実を受け止めざるを得なかった。
はじめから恋に落ちてはいけない相手だったんだ。私は遊ばれたんだと。
その夜、恵理と奈々はそのまま部屋で朝まで一緒に過ごした。
前半は2人で大泣き、後半は奈々が自分の部屋からお酒を持ってきてそれを2人で飲み明かした。
奈々は一緒に泣いてくれた恵理にありがとうと言いつつも、なんでそこまで恵理が泣いてるの?と少し笑いながら聞いてきたが、さすがにその場で本当の事は言えなかった。
泥酔した奈々は真夜中に大声で
「悠一郎のバカヤロー!!」
と叫んだり、やっぱり悲しすぎるとシクシク泣いたりして気持ちを乱高下させれていたけれど、翌日起きた頃には少しスッキリしたような表情を見せていた。
そんな奈々を見て、恵理も少し気持ちが軽くなったような気がしていた。
とても悲しいし自己嫌悪もするけれど、なんだか少し、どん底から救われたような、不思議な気分だった。
いつまでも引きずり続けていた恋心。
終わらせたくても終わらす事ができなくて、過ちも犯した。
でもこの日、恵理はその恋に終止符を打てたような気がしていたのだ。
悠一郎という男に向けて、心の中で〝さようなら〟と。
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