香苗
「…ぁ……あの……」
中嶋
「ハハッどうしたんです?そんなに驚いた顔して。僕の顔に何か付いてます?」
香苗
「い、いえ別に……あの…中嶋さんはどうして…?」
香苗は午前中、隣からの中嶋の声を聞いた時から疑問に思っていた事を中嶋に聞いてみた。
中嶋
「どうして?あぁ……俺の仕事は基本パソコンがあればどこでもできるんでね、今日は恭子の部屋を借りてるんですよ。」
香苗
「どこでも…?あっ、そっか……。」
中嶋が株取引で生活をしていると言っていたのを思い出した香苗。
確かに株取引だけならネットに繋がっていればどこでも可能だろう。
中嶋
「このマンションいい部屋だし、もったいないでしょ?恭子は平日、殆ど寝に帰ってきているようなものだから。」
恐らく恭子は中嶋の事を信頼して合鍵を渡しているのだろう。しかし、そんな恭子を中嶋は最低の形で裏切っている事を香苗は知っている。
香苗
「そ、そうですね……恭子さん忙しいですものね。」
2人がそんな会話をしていると、エレベーターが下りてきてドアが開く。
当然2人はそれに乗って上の階へと行くのだが、香苗はそれを一瞬躊躇した。
こんな狭い密室で中嶋と2人きりになる事に対し抵抗を感じたのだ。
中嶋に対する女としての本能的な警戒心がそうさせていると言ってもよいかもしれない。
先に乗り込んだ中嶋は、エレベーターに乗ってこないで立ち止まっている香苗を不思議そうな顔で見た。
中嶋
「……ん?どうしたんです?乗らないんですか?」
香苗
「ぇ……あ、いえ……」
香苗はそう言って若干重い足どりでエレベーター内へと乗り込んだ。
エレベーターの前で待っておきながら乗らないなんて、さすがにそんな不自然な事はできない。
香苗
「……」
そしてゆっくりとドアが閉まり、狭い密室に中嶋と2人きりになる。
なるべく中嶋を変に意識しないようにと斜め下を向き、床の一点を見つめる香苗。
しかしなぜだろう、鼓動がどんどん速くなっていくような気がする。
緊張?恐怖?
とにかくどう呼吸をしたらよいのか分からない、息が詰まるような重い空気だった。
中嶋
「荷物重そうですね、持ちましょうか?」
香苗
「……えっ?」
中嶋
「荷物ですよ、手が痛そうだ。」
香苗
「あ、いえ……もうすぐなので、大丈夫です。」
どうやら今このエレベーター内の空気を重いと感じているのは香苗の方だけらしい。
前と同じようにどこか軽い印象の話し方、その口調から中嶋はそんな事何も気にしていないようだ。
中嶋
「今日も旦那さんのために手料理ですか?いいですねぇ、ホントに旦那さんが羨ましい。」
香苗
「……。」
中嶋
「家に帰れば綺麗な奥さんと美味しい料理が待っている、働く男にとっては最高の環境でしょうね。」
香苗
「そ、そうだといいんですけど…。」
一方的で何の盛り上がりもない会話。
さすがにその事に中嶋が何も感じていない訳がなかった。
中嶋
「奥さん、今日は元気無いですね?どうかしました?」
香苗
「…え?」
中嶋
「さっきから、俺の方を向いてくれないし、凄く他人行儀だ。この前はあんなに仲良くなれたのに。」
香苗
「え?い、いえそんな事……」
そんな事を言われては中嶋の顔を見ない訳にはいかない。
そう思って香苗は仕方なく顔を上げて中嶋の方を向いた。
するとそこには相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべる中嶋がいた。
その表情は決して爽やかな笑顔とは言えず、どこか不気味という感じがした。
もちろんそう感じてしまうのは、香苗が中嶋の本性を知っているからだろう。
中嶋
「俺、何か奥さんが不快に思うような失礼な事しました?」
……した、したわよ……
香苗
「い、いえ別にそんな事は、ちょっと考え事があって……。」
中嶋
「そうですか…よかったぁ、奥さんに嫌われてしまったかと思いましたよ。」
本心とは違う事を口走った香苗。
まさか恭子との行為や、浮気相手との行為を盗み聞きしてたとは口が裂けても言えない。
中嶋
「何か悩み事でもあるんですか?俺でよかったらいつでも相談に乗りますよ。」
香苗
「大した事じゃありませんから、大丈夫です。ありがとうございます。」
香苗がそう言った所で、エレベーターが階に到着し扉が開いた。
香苗達の部屋と恭子の部屋は隣であるから、2人共同じ階で降りる。
エレベーターを降りれば部屋のドアはすぐそこ。
もう早く部屋に入りたかった。これ以上、中嶋と共に話したりするのは不快だ。
香苗はそんな事を思いながら、中嶋の存在を置き去るようにして少し早歩きで部屋へと向かった。
しかしそんな香苗を中嶋は声を掛けて止める。
中嶋
「奥さんっ!今日も旦那さんは遅いんですか?」
香苗
「えっ?」
中嶋
「旦那さん、仕事今日も忙しいんですか?」
香苗
「ぇ……えぇ、たぶん…」
……どうして……そんな事聞いてくるのかしら?
中嶋
「恭子も今日は遅いらしいんですよ。」
香苗
「……そうですか…。」
中嶋
「お互い、寂しいですね?」
香苗
「ぇ……?」
中嶋は何を言いたいのだろうか。
香苗には中嶋の言葉が何を意味しているのか、まったく理解できなかった。
香苗
「……。」
中嶋
「……フッ…じゃあまた。」
言葉を失っていた香苗の顔をじっと見つめた後、中嶋はそう言って恭子の部屋のドアを開けて入っていった。
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