「いってきまーす!」
「いってらっしゃい、気を付けてね。」
朝、いつものように夫と子供達を見送った菜穂は、急いでキッチンを片付け、洗濯機を回した。
今日は秘書としての出勤初日。と言っても、向かうのは会社ではなく天野に指定されたホテルだ。
早めに家事を終わらせて、10時までにホテルに着かなくてはならない。
「はぁ……」
菜穂は洗濯物を干しながら、何度も大きくため息をついていた。
あれから毎日、まるで自分が天野に飼いならされているような気分でピルを飲み続けてきた。
夫が会社をクビにされないために、やむを得ず菜穂は身体を売りに行く。
そう、これはやむを得ない事のはずで、決して自ら望んでいる事ではない。
しかしその一方でこの一週間、今日の事を想像して菜穂は何度も自慰行為を繰り返してしまっていたのだった。
そしてその自分自身の気持ちの矛盾に気付きながらも、ついにこの日を迎えてしまった。
洗濯と掃除を終わらせた菜穂はシャワーを浴びた。
熱いお湯を浴びながら、気持ちをリセットする。
そして髪を乾かし顔の火照りがなくなったら、鏡の前で化粧をしていく。
「……ちょっと濃いかしら。」
いつもは化粧時間は短く、メイクも薄めの菜穂だが、今日は細かい所が気になって何度かやり直した。
服は普段着でいいと言われているが、天野に指定されたホテルは割と高級なホテルだ。ラフな格好ではいけない。
服を着て、改めて鏡の前で自分の姿を見る。
「……これが私……」
鏡に映っていたのは、2人の子を持つ母ではない、1人の女である菜穂の姿だった。
菜穂はそんな自分自身の姿を見て、いつか天野に言われた言葉を思い出した。
〝奥さんは今、女性として一番綺麗な時期を迎えていらっしゃる。それをもっと自覚した方がいいですよ。貴女は危険な程魅力的だ〟
私の、女としての魅力。
智明と結婚して、子育てと家事で忙しい日々を過ごす中で、すっかりそんな自信は失っていた。
心の奥で眠っていた、女として男に求められたいという欲。
それが例え愛の無い黒い欲望だとしても、人の心と身体にはセックスだけで満たされてしまう部分もある事を、菜穂は天野と近藤と身体を重ねた時に知ってしまった。
脳まで蕩けてしまいそうになる程気持ち良い、あのセックス。
しかしそれはある意味、麻薬のようなものだった。依存性があり、続ければ結果として身を滅ぼすことになるだろう。
菜穂はそれも分かっていた、でも分かっていても、どうしてもあの快楽を忘れられなかったのだ。
「……もう、行かなくちゃ。」
そして菜穂は家を出た。
電車に乗り、ホテルの近くの駅まで移動する。
電車や駅では、通り過ぎる何人かの男性から視線を感じた。
自意識過剰と思うかもしれないが、実際菜穂は見られていた。
元々美人な菜穂が、今日は化粧も服もばっちり決めているのだ。その美しさに男性が思わず目を奪われてしまうのは、当然の事だ。
ホテルに到着すると、胸が高鳴ってくるのが自分でも分かった。
フロントに言うと
「あ、天野様の……お待ちしておりました」
と、なんと部屋まで案内してくれると言う。
普通のホテルではありえない対応だ。
おそらく一流企業の社長の息子だからこそ、高級ホテルをこんな風に使えるのだろう。
エレベーターに乗り、指定された部屋へ従業員と共に向かった。
「こちらです。ではごゆっくり。」
部屋まで案内してくれた従業員は、そう言うとすぐに去って行った。
部屋のドアの前に立ち、深呼吸をする菜穂。
このドアの向こうに行ってしまえば、もう後戻りはできない。
それは今日だけの話ではない。きっと、もうずっとブレーキが効かなくなって流され続けてしまうだろう。
「……。」
菜穂は5分以上、ドアをノックする事ができずにいた。
すると、そんな菜穂の後ろからある人物が近づいてきた。
「よう菜穂ちゃん、どうしたんだ?そんな所に突っ立って。」
「えっ?……こ、近藤さん!?ど、どうして近藤さんがここに……」
「俺も呼ばれたんだよ、天野部長にね。さぁもう時間だ、早く中に入ろう、天野部長が待ってるよ。」
そう言って近藤は動揺する菜穂を尻目にドアをノックした。
コメント