夕陽の光でオレンジ色に染まる街。
道は仕事から帰宅する車で少しずつ混み始めていて、歩道には部活終わりの中学生や高校生が楽しそうに話をしながら歩いている。
そんな当たり前のようで貴重である、平和な光景を眺めながら、香苗は車を走らせていた。
夕方というのは皆が安心したい時間帯だ。
疲れる仕事や学校を終え、あとは家に帰れば家族との寛ぎの時間が待っている。
〝今日の晩御飯はなんだろうな〟だとか、ある家を通り過ぎたときにスパイシーな香りを感じると〝あ、ここの家は今日カレーかぁ〟などと思いながら帰り道を歩くのが、平凡だけど幸せなのかもしれない。
香苗は流れ歩く人々を見て、ボンヤリとそんな事を考えながら車を走らせていた。
地下駐車場に車を止めバタンとドアを閉めて、マンションのエレベーターへと向かう香苗。
夜ご飯を食べた後はゆっくりと映画を見よう。
しかしそんな風にささやかな贅沢を想像しながら、降りてくるエレベーターを待っていたその時、香苗は一瞬、後ろに人の気配を感じた。
香苗
「……?」
そういえば前にも同じような事があった気がする。
何か嫌な予感を感じながら香苗は、ゆっくりとその気配のする後ろに振り向いた。
香苗
「……ぁ……」
中嶋
「あれ?また会いましたねぇ奥さん。」
その姿を見た瞬間、その声を聞いた瞬間、香苗は身体の芯がゾクゾクと震えるのを感じた。
先程までのホンノリとした幸せの気分が、一気に別のものに切り替わる。
香苗
「な、中嶋さん……。」
中嶋
「ハハッ、またそんな驚いた顔して。僕の顔に何か付いてます?」
香苗
「い、いえ……そうじゃないですけど、突然だったのでビックリして。」
中嶋
「そうでしたかぁ、いやぁすみませんでした、突然背後から誰かが近づいてきたらそりゃ驚きますよねぇ。」
香苗
「……。」
しかし最初は驚きはしたものの、中嶋という男を目の前にしても、香苗は以前よりは冷静さを保てていた。
前は中嶋と会話をしているだけで、不思議と身体が熱くなっていくのを感じたが、今はなんとか抑えることができる。
……何も……何も意識する事なんてないんだから……
中嶋
「……恭子がね、出張でしばらく居ないんですよ。」
香苗
「ぇ……?えぇ、そうみたいですね。」
エレベーターのデジタル数字が切り替わっていくのじっと見つめながら、香苗は中嶋との会話に応えていた。
中嶋
「旦那さんも、出張なんでしょ?」
香苗
「えっ!?」
中嶋の言葉に香苗は思わず驚きの声を上げた。
……どうしてこの人がその事を知ってるの……?
中嶋
「恭子がさっきメールで知らせてくれたんですよ、今朝会ったんですよね?」
香苗
「あ……はい……。」
当然、恭子と中嶋は恋人なのだから、そういう事を会話の中で連絡し合っていても不思議ではない。だから祐二が出張している事を中嶋が知っていても別に驚く事ではないのだが。
中嶋
「じゃあ奥さんはしばらくお1人なんですね?」
香苗
「ぇ……えぇ…まぁ……。」
相変わらず中嶋のネットリとした話し方と言葉を聞くと、変な気分になる。
不快ではないのだけれど、自分の女としての本能が何か警戒を呼びかけきていた。
中嶋
「女性1人じゃ色々と不安でしょう?何か困った事があったら俺に言って下さいね。隣に居ますから。」
香苗
「あ、ありがとうございます……。」
中嶋 「恭子に言われたんですよ、奥さん1人だからもし何かあった時はってね。」
香苗
「そうでしたかぁ……。」
あの優しい恭子なら言いそうな事だ。
だがしかし、未だにこの中嶋があの恭子の恋人だなんて信じられない。
あんな毎日のように別の女性と関係を持っているこの男が。
恭子はあの事を本当に知らないのだろうか。
香苗
「……。」
でも、あの優しい恭子の事だからもしかして中嶋がそういった男だという事を全て承知の上で付き合っているのかもしれない。
普通に考えて、毎日毎日人が入れ替わるようにして自分の部屋に入っていて気付かないのはおかしい。
だとしたら、恭子はこの中嶋の何に惹かれているのだろうか。
多くの浮気を許せてしまう程の何かが、この中嶋にはあるのだろうか。
香苗はふとそんな事を考えながら、中嶋と共に降りてきたエレベーターの中へと入っていった。
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