祐二 『もしもし香苗?ちょっとさぁ、道が混んでて着くまでまだ時間掛かりそうだわ。』
香苗
「そっかぁ、この時間帯だもんね。うん分かった、安全運転で帰ってきてね。」
祐二 『はいよぉ。』
祐二との電話を切った香苗は、目の前のテーブルに並べられた料理を眺めた。
香苗
「よし、上出来かな。」
腕によりを掛けて作った自身の料理の出来に、満足そうな香苗。
……祐二とお義母さんがどんな反応をするのか楽しみだわ……
部屋の掃除も料理の準備もできた。
しかし祐二が義母を連れて来るまでにはまだ時間がある。
香苗は時計を見つめながら少し考えた後、玄関へと向かった。
スリッパを用意していなかった事に気付いたからだ。
香苗
「ん~後は何か忘れてる事ないわよねぇ、お風呂も洗ったしお布団も用意したし。」
スリッパを並べて玄関がちゃんと綺麗になっている事をした香苗は、そんな事を呟きながら再び部屋に戻ろうする。
だが、そこで突然電子音が廊下に響き、香苗の足が止まった。
インターホンの呼び出し音が鳴ったのだ。
香苗
「え?……祐二?」
さっき電話で遅くなりそうだと言っていたのに。
そう考えると、インターホンを押した人間が祐二ではないであろう事は香苗にも分かった。
……誰なの……?
心の中でそんな風に思いながらも、香苗はある予感を感じていた。
香苗が何を悟ったのか、その表情を見れば一目瞭然である。
先程までの明るい表情とは一変、不安な気持ちが顔に表れていた。
慌てて部屋に戻った香苗は、モニターでそれが誰なのかを確認する。
そしてその予感は、やはり当たってしまっていたのだ。
香苗
「……中嶋さん……」
香苗の顔から血の気が引いていく。
モニターには確かに、あの中嶋が映っていた。
香苗は自分の心が絶望感で埋め尽くされていくのを感じていた。
そして、自分は逃れようのない問題から逃げようとしていたのだという事を実感する。
罪は消す事はできない。
無かった事になんかできる訳ないのに、一生懸命そう思い込むようにしていた。
だって昨日の夜から今日一日、そう思い込まないと、幸せを感じる事ができなかったから。
……どうしたらいいの?……どうしたらいいの?……
突きつけられた目の前の現実に、香苗の心は混乱する。
そして何より、怖かった。
この幸せが、また崩れていってしまう事が。
中嶋 『奥さ~ん、居るんでしょ?』
モニターに映る中嶋が、ニヤニヤと笑いながらそう香苗を呼ぶ。
しかし香苗は、なかなか声を出す事ができないでいた。
まだ逃げたがっている自分がいる。
中嶋 『居るのは分かってるんですよ。』
中嶋は全てを見透かしているかのようにそう言う。
そうだ、中嶋はいつだってこうやって香苗の心を読んできた。
だからこそ香苗の心の隙を突く事ができたのだ。
香苗がどんな心構えをしていようと、いつもそれを鷲掴みにしてくる。
中嶋 『今旦那さん居ないんでしょ?今の内に奥さんの顔見たいなぁ。』
それを聞いて、香苗の震える口からやっと声が出る。
香苗
「な、中嶋さん……ごめんなさい……」
中嶋 『ん?どうしたんですか?』
香苗
「私……もう……貴方とは……あ、会えないんです……」
香苗の、何かを願うようにして必死に出した言葉。
決別の言葉。
それが香苗が再び幸せに向かって歩き出すための、唯一の選択肢。
しかし、それに対する中嶋の反応は意外なものだった。
中嶋 『……ハハッ、そうですかぁ。いや実はね、ちょうど俺も今日は奥さんにお別れの挨拶をしに来たんですよ。』
香苗
「え……?」
思わずそう声を漏らした香苗。
そして中嶋はこう続けた。
中嶋 『俺としては残念なんですけど、色々と事情がありましてね。奥さんと会えるのは今日で最後なんですよ。』
香苗
「……今日で……最後……」
中嶋 『えぇ、だから最後にちゃんとお別れの挨拶をさせてください。』
予想外の事だらけで香苗の心は依然混乱したままだったが、中嶋の言葉を聞いて僅かに心が救われていくように感じていた。
……終わる……本当に終わらせる事できるの……?
そうできるなら、終わりにして、今ここで全てを無かった事にできるなら……。
祐二との結婚生活の大切さに気付き、そしてそれを守りたいと強く思っている今の香苗の心は、当然のようにそう動いた。
そしてそんな香苗の気持ちを、中嶋の言葉がさらに後押しする。
中嶋 『きちんと挨拶をさせてくれれば、俺は消えますから。もう二度と奥さんの前には現れません。だから奥さん、最後に顔を見せてくださいよ。』
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まとめtyaiました【人妻 吉井香苗(109)】
祐二 『もしもし香苗?ちょっとさぁ、道が混んでて着くまでまだ時間掛かりそうだわ。』香苗 「そっかぁ、この時間帯だもんね。うん分かった、安全運転で帰ってきてね。」祐二 『はいよぉ。』祐二との電話を切った香苗は、目の前のテーブルに並べられた料理を眺めた。香…