「はぁ……」
結婚10年目。専業主婦の響子は、家族の洗濯物を庭で干しながら大きくため息をついていた。
退屈……そう思う事が最近多くなってきた。
夫の洋平は国立大卒で大手自動車メーカーの会社員、収入は充分以上にあり、子供2人を含めた家族4人で暮らしていくには何の不自由もなかった。
毎日働いてくれている夫には感謝している。
しかし、この夫婦に会話は殆どなかった。
仕事が最優先の夫の価値観、育児への無関心さ……
原因はいくつもあるが、小さな価値観のズレが10年という長い期間で少しずつ積もっていき、いつの間にか夫婦の間に大きな溝を作ってしまったのだろう。
夫の洋平は、これだけ稼いでいるのだから文句はないだろ?という態度で、響子が大事な話をしようとしても相手にしてくれない。
数年前までは些細な事で口喧嘩をしたりする事もあったが、今ではその喧嘩さえもしなくなった。
離婚までは考えた事はない。
しかし、あのままずっとぶつかり合っていたら、いずれ家庭は崩壊してしまうと思った。
だから響子と洋平は安全策で、お互いに妥協、妥協、妥協を繰り返した。
私が結婚した夫は、こういう人だから仕方ないのだと。私は子供達が独り立ちするまで母親としてやるべき事をやるだけだと。
夫の全てを嫌いになった訳じゃない。ちゃんと恋愛して、愛して結婚した相手なのだから。
でも今は少しだけ距離を置いておきたい、そうすれば疲れる事はないから。
響子は自分にそう言い聞かせてここ数年を生きてきた。
でもその生活は気が楽になった分、どこか退屈だった。
♪~♪~
響子の携帯にメールが届いた。友人の沙弥からだ。
沙弥とは大学時代からの長い付き合いで、今でも週に一度は会う程の仲。
ケーキが美味しいカフェで、ストレス発散がてらに沙弥と愚痴を言い合う時間は、響子にとっては貴重だった。
『1時にいつものカフェでいい?』
『うん、いいよ。じゃあ後でね。』
響子の性格がどちらかというと真面目で大人しいのに対して、沙弥は昔から活発な女だった。
そして活発過ぎたからなのかは分からないが、実は沙弥は一度離婚を経験している。
離婚の直接的な原因は夫の浮気発覚だったのだが、本当はその頃に沙弥の方も他に恋人を作っていたらしく、本人曰く、互いの正直な気持ちを尊重し合った円満離婚だったらしい。
子供もまだいない自由奔放な夫婦だったから、離婚までスムーズに事を運べたのかもしれない。
響子と沙弥は昔から恋愛に関する価値観も、着ている服のファッションも、その殆どが真逆だった。なのに不思議と気が合う。
両極端な性格だからこそ、お互いに自分に無い物を感じて惹かれあっていたのかもしれない。
「響子もさ、そんなに旦那に不満があるなら彼氏でも作っちゃえば?」
「え?む、無理よ、私にはそんな事……」
「どうして?響子は美人だし、作ろうと思えばすぐにでもできるわよ、年下の男でも年上の男でも、ウフフ。」
「そういう事じゃなくて……私は沙弥とは立場が違うのよ、今も既婚だし、子供達もいるし。それに私、夫と別れたい訳じゃないのよ。」
「それは分かるけど、この先もずーっと我慢するつもり?そんな事してたらいつか爆発しちゃうわよ?どこかでガス抜きしなくちゃ。」
「ガス抜きねぇ……でも私はこうやって沙弥に話を聞いてもらうだけでも充分ガス抜きになっているから大丈夫よ。」
「私が言ってるのはそういう意味じゃないの。男の人に抜いて貰わないと溜まっちゃうモノだってあるでしょ?響子、あっちの方は随分とご無沙汰なんじゃないの?」
「え?……もぉ沙弥ったら、下品な事言わないでよ。」
「ウフフ、人間だったら誰でもそういう欲求は持っているんだから、響子だって例外じゃないはずよ、そうでしょ?肌と肌を合わせるって大切な事よ。」
――肌と肌……か――
確かに響子は長い間セックスをしていなかった。
夫・洋平と距離を置くようになってから、身体を重ねた事はない。所謂、完全なセックスレスだった。
子供を2人出産しているとはいえ、響子はまだ若いし、1人の女である事に違いはない。
人の肌が恋しくなる事も当然ある。
しかしそれでも沙弥のようにオープンにはなれないのが響子なのだ。
貞操観念、世間体、子供達の事も考えれば、不倫や浮気なんて考える前に自然と自分にブレーキが掛かる。
「……沙弥はそういう欲求に素直過ぎるんじゃないの?」
「ウフフ、そうかもねぇ。響子も殻を破ってこっち来ればいいのに。」
「ダメよ、私にはそんな大それた事はできないわ。それより沙弥はどうなの?新しい彼とは上手くいってるの?」
「彼?うん、上手くいってるよ。今度響子にも紹介するね、とっても素敵な人よ。」
世間的には結婚して子供にも恵まれている響子の方が女として幸せであるとされるはず。
でも響子には、鳥が空を飛ぶように自由気ままに生きている沙弥が少し羨ましく思えた。
自分の気持ちに素直に生きていくのって、それはそれで難しい事なのに、沙弥はそれを昔から当たり前のようにやっている。
「なんだかいいわね、沙弥は楽しそうで。」
「楽しいよ~、だからこの楽しみを響子にもお裾分けしたいの。」
「その気持ちだけ受け取っておくわ。私は家に帰ったら現実に戻らないといけないから。子供達のご飯作って、宿題を見て、夫のシャツにアイロンをかけるの。」
「偉いよね響子は。そういう状態でも子供だけじゃなくて旦那さんのアイロンも掛けてあげてるんだから。」
「気の持ち様よ。夫との事は少し距離を置くようにしてから楽になったの。長い結婚生活を維持するには、そうやって工夫して生きていかないと駄目なのよ、きっと。」
「自分を誤魔化して?」
「別に誤魔化してる訳じゃ……」
「それって退屈じゃない?」
「……退屈そうに見える?」
「見える。女として見てくれる男がいない生活なんて、退屈よ。私は響子にはもっと輝いていて欲しいのよ。」
「女として輝く、か……」
確かに夫はもう、自分の事を女として見てくれていないのかもしれない。
家族と暮らしていてもどこか心が満たされないのも、それが原因なのかもしれない。
世間の前でどんなに取り繕っても、沙弥だけにはそれを見抜かれてしまう。
心の奥に潜んでいる本音を。
だから響子は沙弥の生き方を否定できないのだ。
そんな沙弥から
「女2人だけで一緒に旅行に行かない?」
と誘われたのは、それから数週間後の事だった。
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